2019年3月例会 ~仕事を通して自己実現を目指し、半世紀余…

開催日 2019年 3月20日

3月例会のスピーカーは、長くよこの会の会員であった安田和子(香珠子)さん。まもなく80歳を迎える現在も、女性問題専門心理カウンセラーとして活躍されており、よこの会には「一番働き盛りの時期だった」という40代中ごろに参加されました。

半世紀余りにわたり、常に「草分け的」な存在としてさまざまなキャリアを築いてこられただけでなく、「個個セブン」という、同じマンションを拠点に仲間7人が近居し、それぞれが自立し、助け合って暮らす生活でも、NHKなど多くのメディアに取り上げられています。

「桜のような、花のようなよこの会で『自慢できる女性』が安田さん。何年かぶりで話が聞けるという事で楽しみにしていました」と、開会のスピーチをされたのは長年のよこの会仲間の丸子喜代子さん。

その言葉が象徴するように、ゲスト8人を含め総勢31人が集まり、にぎやかな会となりました。

【青春篇】

はじめに

23年周期」で生き方、働き方のターニングポイントがあったと語る安田さん。その23年周期に沿い、青春・朱夏・白秋・玄冬に分け、その歩みを振り返ってくださいました。

青春 ~23歳

父が戦死したため、養護教員をしていた母と、祖母と3人の家庭で育ちました。

当時の食糧事情もあり、病気がちで、布団の中で絵本を読んで過ごすことの多い子どもでした。

祖母は耳が遠く、大きな声で話さないといけないので、自然と声が大きくなり、おかげで学芸会などでは「声が大きいから」という理由で良い役をもらいました。

それがきっかけで、拍手を浴びることに味をしめ、人前で演じる喜びを知ったように思います。

当時は女性解放の先駆者、与謝野晶子、平塚らいてうにあこがれる文学少女でしたが、そのことが後年フェミニストカウンセラーを選んだ原点になっていると思います。

看護師だった母はキャリアウーマンのはしりで、家族を養うために高校の教員資格をとりました。

母子家庭でしたので、大学に進学するときには国・公立を受験するつもりでしたが、当時高校の保健室で働いていた母が「同志社大学の願書が一枚余っていたから、試験の雰囲気に慣れるために受けてみる?」と言ってくれました。

私立は金持ちが行く大学で、自分とは無縁と思っていましたが、せっかくなので試しに受けてみようと、大学に願書を出しに行きました。

そこで目にした風景が、レンガつくりのチャペルや建物、緑の多いキャンパス。

アメリカの映画に出てくるカレッジのような学校の雰囲気にすっかり魅了されました。

「受かったら行っていい?」と母に相談し、あこがれの同志社大学に進学することとなりました。

大学時代

初めは片道2時間20分かけて通学していましたが、5月末から女子寮に入りました。

専攻したのは、「どうせなら面白そうな学部を」と選んだ社会学科。

「同志社と言えば英文科じゃないの?」との心無い声があり、「絶対に英文科の子には負けるものか」と頑張りました。おかげで英語の成績はかなり良かったです。

一方で、演劇活動に熱中。有名な学内の演劇サークル「第三劇場」に所属。映画俳優としてはまだ売れてなかった近藤正臣さんが一緒に舞台に上がったこともあります。

私は独特の声なので老け役かセクシーな役しか回ってきませんでしたが、当時は「新劇の女優になりたい」と思っていました。

しかし、新劇女優ではいつになれば食べて行けるか分からず、それでは母に申し訳ないと、卒業前に演劇の道はあきらめました。

学生から社会人へ

当時は就職活動といっても「女子大生はすぐ辞めるから」という理由で、企業から敬遠されていた時代で、女子大生の求人は本当にありませんでした。

それでも私は、苦労して私大に進学させてくれた母への申し開きのためにも一部上場企業に就職したいと強く思っていました。

実は、私は大学で図書館の司書資格を取っていました。大学が夏休みの間も京都で遊んでいたくて夏期大で司書資格をとったのですが、その資格が役立ち、3大タイヤメーカーの1つ、東洋ゴム㈱に就職できました。

念願の一部上場企業に就職でき、「中央研究所 特許室」という部署に配属され、英語とフランス語のジャーナルの翻訳という仕事を与えられました。

化学やタイヤの知識が必要で、私にとって全く興味のない分野だったため、仕事は全然面白くない!!

入社から半年もたつと、翻訳はなんとかできるようになりましたが、仕事が全然面白くないので、だんだんやせ細り、気が付けば8キロやせていました。

それでも「やはりすぐ辞めた」と言われては後輩女子たちに申し訳ないと思い頑張りましたが、結局心の病に。隣の席の人が打つ、タイプライターのカチカチという音にあわせて、顔面にチックが出るようになってしまったのです。

「なんぼなんでもこれはダメだ」と、入社約1年で、ついに辞める決心をしました。

転職

私は「母の期待に応えるためにも一部上場企業に就職しなければ」という思いだけで、就職先を選んでいました。

そしてそこでの1年1か月は、人生の中での底付き体験だったと思っています。

しかし

本当は何がしたいのか

どういう仕事がしたいのか

そう改めて考えさせてくれたのは、その最初の就職先での体験のおかげ。

その後もいろいろな仕事をしましたが、最初の会社での不本意な仕事に比べればなんでもできるという気持ちで頑張ってきました。

また1年しか在籍しなかったのに、当時の同期入社の方とは今でも毎年1回同期会で交流を続けており、すごく感謝しています。

【朱夏篇】

24歳からの朱夏

次に就職するときは一部上場とか規模とか外的な要因ではなく、自分が本当にやりたいことをやらせてくれるところにしよう。

「新聞記者になりたい」。そんな思いを抱くようになりました。

とはいえ、子どものころに良く作文をほめられていたという思い出だけで考えついたようなもので、今思えば冷や汗ものですが、運良く新聞の求人広告で見つけた「ラジオテレビ日本」に採用されました。

芸能関係なのでテレビ局と映画の撮影所を走り回ってタレントに取材する毎日でした。

その会社では新日本新聞という経済紙も発行しており、しばらくすると、社長が関西財界の重鎮にインタビューするのをまとめるのが仕事になりました。

社長に気に入られたのか、社長の行く先々に連れ回され、松下幸之助さんなど、一流財界人にお会いすることができました。

第二の転職

一方で、社長にかわいがってもらった分、よくある話ですが、社長の愛人だった秘書に嫉妬されることになりました。

見かねたデスクが気を使って、「大日本印刷(株)CDC事業部」を紹介してくれ、転職することになりました。

紹介先の部長には「明日から来てください。デスクと電話は自由に使ってください。出勤時間も自由です」と言われ、フリーとして契約しました。

新聞社での経験を買われ、大手企業のPR誌を作る部署に配属されました。

慣れてくると、コピーの勉強もし、コピーライターの仕事も引き受けることになりました。

ちょうど田中角栄が首相の時代で、景気はすごくよくなっていました。仕事も予算もたくさんありました。

日本中駆け回って書いて書いて書きまくり、35歳頃には毎月100万円以上稼ぐようになりました。

とにかくいろいろと楽しい思いをさせてもらった。

なかなか経験できないこともさせてもらった。

中でも、24歳の時、憧れの女優、杉村春子さんを取材したのは忘れられないひとときでした。

「女の一生」

わたしは高校時代、杉村さんのその芝居を見て、新劇をやりたいと思ったのです。

女性解放思想にあこがれて

さまざまな女の人生を生きられる演劇・舞台に熱中し

自分の生き方や働き方に試行錯誤する

 

「多忙」

とにかく仕事は面白かったのですが、睡眠は毎日4時間と多忙を極めました。

30代も後半に入ったある日、新聞を見ていて、多忙という文字が心に響きました。

「心」が「亡びる」とかいて「忙」

燃え尽きかけていたのだと思います。

仲間のクリエイターが亡くなるなどのショックが重なったこともあり、

「今日を大切に生きなければだめだ」

と痛切に感じました。

仕事を始めた当時はコピーライターがまだまだ少なく、かなりインテリの男性にも「コピーとって給料もらえるんですか」と言われた時代。

成功モデルもなく、感受性商売のコピーライターで、いつまで仕事をもらえるのか、いつまで時代の先端を行くコピーを書けるのか、自分自身不安でした。

一生仕事をしていきたい。

人生の折り返し地点の40歳までに「やりたい仕事」を見つけて辞めよう、と思うようになりました。

しかし、経済的には余裕があったこともあり、結局40歳が近づいても次の仕事を見つけられませんでした。

転機

そんなある日、備前焼の人間国宝、藤原啓先生をインタビューすることになりました。

当時、先生は88歳くらいでしたが、若いときは東京の英語専門学校に通い、アルバイトで松井須磨子の劇団に出演し、セリフが覚えられず怒られたというエピソードの持ち主でした。

そして、40歳から土ひねりを始めて50歳で人間国宝になられました。

話を聞きながら、45歳までには必ず転職しようと決心しました。

自分が面白いと思える仕事

人間(できれば女性)を相手にした仕事

収入にはこだわらないけれども定年は自分で決めたい

この三つを「終の仕事」の条件にしました。

しかし、45歳の直前になっても、そんな仕事は見つからず、焦っていました。

そんなある日、うつ病になった親友の役に立つ話が聞ければ良いなと思い、精神科医の講演会に行きました。そこで初めてカウンセリングという仕事があると知り、講演会の帰りには「これや、この仕事をしよう」と決めていました。何の迷いもありませんでした。

あと3カ月で45歳というタイミングでした。

【白秋篇】

69歳までの白秋

しかし、カウンセリングという仕事も、まだ世の中にはほとんど無い時代。

ちゃんと勉強するために、もう一度大学で心理学の勉強をしようと思い、大阪市立大学と府立大学へ聴講に通うことにしました。

当時京大の河合隼雄先生と並び日本心理臨床学会の4本柱とも言われた船岡三郎教授にも、何とか聴講を認めてもらうことができ、勉強を始めました。

翌年、船岡教授に京都女子大学の大学院に行くことを勧められたのですが、それが入試の13日前。当然、不合格。

そこで持ち前の負けん気に火が付き、真剣に受験勉強をし直し、翌年は見事合格できました。

卒業

「女性の悩みに寄り添って自分らしく生きられるようにお手伝いしたい」

そんな思いから、大学院に通いながら仲間を募り、女性だけを対象にした「心の相談室マインド」を設立しました。

当時フェミニストカウンセリングは非常に少なく、国内では河野貴代美さんが東京で開設しているぐらいで、箱根より西では最初のフェミニストカウンセリングルームとなりました。

大学院に入学したのが50歳、修了したのが52歳。

修了式では学長から一人だけ、直々に祝辞を頂き、修了証書を渡されました。

「52歳で京都女子大学大学院終える。カウンセラー目指し専門知識、技術を学ぶ」と朝日新聞にも写真入りで大々的に記事が出ました。

女性を対象にしたさまざまな雑誌社からの取材があり、記事を見て北海道から九州まで「電話でカウンセリングしてくれないか」とたくさん電話がかかってきました。

また、カウンセリングの学びの場を求めて大阪から東京へと駆け回る日々でもありました。

ところが、大学院を修了し、さぁ臨床に専念しようというときに、母が認知症になります。

母のおかげで大学まで行かせてもらい、いろいろな経験ができた私。

「母の介護もちゃんとしたい。介護と仕事を両立させたい」

母への強い思いと、コピーライター時代の「自信」=自分を信じる、という強い思いがパワーになり、母が91歳で亡くなるまでの10年間、なんとか仕事と介護を両立させることができました。

【玄冬篇】

69歳からの玄冬

その間、阪神大震災を経験し、心の相談室マインドも、心の相談室ウーマン(現在はwoman)へと変わりました。

69歳まで仲間と一緒に活動しましたが、仲間の引退を機に活動を休止。

69歳目前のある日、突然激しいめまいに襲われました。

多発性脳梗塞と診断されました。非常にショックでした。

明け方に良く発作が起こる病気だそうです。

数日後に腐乱死体で発見されるのだけは避けたい、一人暮らしはリスクが高い、と思いました。

死というものを補助線として今後の生き方を考え、身辺整理をしました。

「くよくよしても仕方がないし、今日を大切にして、生きていくことを楽しもう」

その決断の一つが、同じマンションで仲間と助け合いながら暮らしていくという現在の生活につながりました。

69歳からはじまり今年で11年。なんとか中心メンバー6人で続いています。

卒業

「女性の悩みに寄り添って自分らしく生きられるようにお手伝いしたい」

そんな思いから、大学院に通いながら仲間を募り、女性だけを対象にした「心の相談室マインド」を設立しました。

当時フェミニストカウンセリングは非常に少なく、国内では河野貴代美さんが東京で開設しているぐらいで、箱根より西では最初のフェミニストカウンセリングルームとなりました。

大学院に入学したのが50歳、修了したのが52歳。

修了式では学長から一人だけ、直々に祝辞を頂き、修了証書を渡されました。

「52歳で京都女子大学大学院終える。カウンセラー目指し専門知識、技術を学ぶ」と朝日新聞にも写真入りで大々的に記事が出ました。

女性を対象にしたさまざまな雑誌社からの取材があり、記事を見て北海道から九州まで「電話でカウンセリングしてくれないか」とたくさん電話がかかってきました。

また、カウンセリングの学びの場を求めて大阪から東京へと駆け回る日々でもありました。

ところが、大学院を修了し、さぁ臨床に専念しようというときに、母が認知症になります。

母のおかげで大学まで行かせてもらい、いろいろな経験ができた私。

「母の介護もちゃんとしたい。介護と仕事を両立させたい」

母への強い思いと、コピーライター時代の「自信」=自分を信じる、という強い思いがパワーになり、母が91歳で亡くなるまでの10年間、なんとか仕事と介護を両立させることができました。

69歳からの玄冬

働く母の背中を見て育ち

自分の生き方や働き方に試行錯誤し

女性の生き方を支援するカウンセラーという仕事にたどり着けた

このことは無常の喜びであり、運命的なものさえ感じます。

それでも、さすがに今年は80歳に。カウンセリングの仕事は「やめよう」と思っています。

「あぁ面白かったな」

「じゃぁまた」と、

軽やかにサヨナラ出来たら最高だと思い、今は残りの仕事を楽しみながらさせていただいております。

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